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KCDに訊くオールドスクール・ファッション史 東京編

東京とニューヨークを拠点に、世界中のヒップホップヘッズやアーティストから熱い支持を集めるアパレルブランド、BBPのメインデザイナーを務めるKCD氏がヒップホップとファッションの歴史を紐解く集中連載。第二回となる今回は、ヒップホップ・ファッションが日本に輸入された80年代中盤の東京から、KCDが90年代後半NYに留学して体験した当時のニューヨークのヒップホップファッション事情について語ってもらった。


―80年代の東京のシーンを牽引したショップ、デプト

「中学生の頃、通学で東横線に乗ってたら、『ワイルドスタイル』の公開に合わせてキャストが来日して西武百貨店の屋上で開催された『ニューヨーク展』の広告が出てて、それが僕のヒップホップとの出会い。ワイルドスタイルは最初はビデオで見たんだけど、全然ピンとこなかった。なんか暗い映画だな、みたいな(笑)。そのちょっと後に、ヒップホップを知らない人たちにも普通にブレイクダンスが流行ったの。風見しんごの『涙のテイクチャンス』がヒットしたり、みんな体育館でくるくる回ってた。でもクラスのうちでカルチャーとしてのヒップホップに興味があったのは僕くらい。学年で一人しかいない。86年にランDMCが来日した時に、アディダスのスーパースターが流行って『かっこいい!』ってなって。その頃原宿のデプトストアにパンプ横山さんのセレクトしたコーナーがあったんだけど、向こうのアーティストのTシャツとか、あとはブートのダッパーダンっぽいベストとかが売ってて。後半になるとパンプさんのオリジナルブランドのトラックスーツも置いてた。そこにレコードも売ってるヒップホップコーナーみたいなのも併設されてて、『アルティメット・ブレイクス・アンド・ビーツ』(ブレイクビーツ集のレコード)を初めて買ったのもデプトだった。他はどこにも売ってないから、最初見たときになんのレコードか全然わかんない。ラップが入ってると思ってたんだけど、2500円くらいで超高えと思って。でもデプトにあるんだから相当なものだろうって1枚買ったわけ。確か17番かな。そしたらブレイクビーツの元ネタのロックとかファンクの曲が入っていて『これは一体何なんだろう?』と思って(笑)」


―パンクとヒップホップを扱っていた高級店アストアロボット

「あと当時はセディショナリーズとかを扱ってた原宿のショップ『アストアロボット』にもヒップホップ関連のものがちょっとあって。最近高木完さんに色々話を聞いたんだけど、要は藤原ヒロシさんがヴィヴィアンウェストウッドと繋がりがあって、ヴィヴィアンとレディーブルーがマブだと。それでレディーブルー経由でヒップホップのグッズが色々流れてきたらしい。今日持って来たランDMCのブートのTシャツはロボットで買ったやつだね。当時でもセディショナリーズとかヴィヴィアンのTシャツとかはすごい高かったと思うけど、ヒップホップのブートのTシャツとかは4000円しなかったんじゃないかな、結構安かったと思う。個人的にはデプトは普通に入れたけどストアロボットは相当緊張する感じだった(笑)。ロボットで売ってた中西俊夫さんが『ハードコアハワイアン』のジャケットで着てるスーベニアジャケットは、あれは本当に軍モノのスーベニアジャケットなの。沖縄の国際通りとか横須賀にある軍モノのショップにああいうジャケットが普通に売ってたんだけど、あの当時そういうのはみんな韓国とかで作ってて。あれと同じ刺繍で、ビロードみたいな生地のがデプトにも売ってた。あとニューヨークの人たちってストレートにハイブランドへの憧れがあったりとかするんだけど、80年代の終わりだとDCブランドブームのあとで、僕たちにとっては別にハイブランドって自分らのものでもないし、全然かっこいいものじゃなかったのね。でも、ルイヴィトンの生地使ったフィッシングベストとか、そういうちょっとツイストしてる偽物っぽい感じが面白い感覚はあった。東京はそういう意味ではニューウェーブ・パンクからヒップホップに流れていった人たちと、あとはYUTAKAさんとかDJ HONDAさんみたいに、ディスコやソウルミュージックから流れた人たちという二つの流れがあったから」


―渡米、デザイン学校での刺激的な出会い

「97年にアメリカに渡って、ニューヨークのスクールオブビジュアルアーツっていう美大に行ったんですよ。当時ドローイングの授業の先生が40歳くらいの黒人で、すごい厳しい先生だったんだけど、俺はその当時スニーカーをすごいたくさん持ってて毎週違うスニーカーを履いて学校に行ってたら、その先生が俺のスニーカーをガン見してくるの(笑)。学期も半ばくらいになった時に、プロケッズかなんか履いてたら「お前、いいの履いてるな、それ今でも売ってんのか?」って言ってきて。これはオリジナルだよって話をしてたら『俺も昔はすごいヒップホップが好きで』みたいな話になって。その頃、90年代終わりの話なんだけど「MTVのせいでみんな同じ格好をするようになったけど、昔はクイーンズとブロンクスとブルックリンでみんな違う格好をしてた」って言うんだよね。例えばブロンクスだったらハードなイメージで、ハーレムはやっぱりすごい派手だったり。狭いニューヨークの中でも、土地土地でそういう住み分けがあったらしいの。だから今はMTVやテレビの影響で、例えば日本に行ってもニューヨークと同じ格好をしてるからつまんないよね、みたいな話をしてた。あと、また別の先生の授業でみんなで講評する時間があって、確か俺がヒップホップっぽいモチーフを使った時に先生が『俺は昔ソニーにいてデフジャムの仕事とか色々やってた』みたいな話をしだして。それで詳しく聞いてみたら、ビースティの1stの飛行機が壁に突っ込んでるジャケのアートディレクター。他には、L.L. Cool Jの『Radio』のラジカセとか、パブリックエネミーの1枚目2枚目も全部。あの当時のデフジャム作品は全部ソニーコロンビアから出てて『俺はソニーコロンビアのインハウスのデザイナーをやってたんだ』と。とにかくリックルービンがものすごい頭のいいやつだって言ってたね。逆にL.L.はすごいバカで、どんなの作りたいんだ?って聞いても『とにかくラジカセ!』としか言わなかったって(笑)」


―NYにいた当時のKCDのファッション

「90年台半ば頃はGUESSパンに、上はノースとか。僕もグラフィティをやってたから周りはライターが多かったんだけど、そいつらファッションには凄いこだわりがあって。GUESSパンってシルエットも太いし、36から38インチを履くとレングスが合ってないから、ずるずる引きずったりするじゃん。でもみんなそれは嫌だから裾の余ったところを後ろだけ靴下に入れて。そうすると地面と擦れないからって。折りあげてブーツを履くから前も擦れない。あと当時アップタウンで流行ってたのが、サンバイザーを後ろ向きにかぶってさらにひさしが上を向くようにするやつ。HIPHOP最高会議の千葉くんがそれ見て早速取り入れてた。あとカーペンターパンツね。ブロンクスだと皆ほぼGUESSのバギーかカーペンタータイプだった」

―ビンテージアイテムの入手方法

「アメリカに行ってからは学校の帰りに何軒かスリフトショップをハシゴして毎日見て回って、1ドル2ドルで売ってるラップTとかを買ってた。ああいうショップに並んでるものって、10年くらい前のものしかないんですよ。だから2000年代に入っちゃうと基本的に80年代のものは殆ど出てこない。ebayでも、昔はラップTでも全然値段がつかなかったのに、今はラップTってだけで300ドルとか普通についちゃったり。結局なんでラップTがそんなに希少価値があるかっていうと、もともとロックTと違ってプロモーション用と会場でしか売ってなかったから、絶対数が少ないからなんだよね。当時から現場に居てそこで買わないと残ってなかった。それなのにSNSとかでセレブがラップT着てる写真が拡散されるからどんどん値段が上がっちゃったんじゃないかな」

いかがだっただろうか? 当事者でしか知りえない貴重な証言からは、昨今のヒップホップファッションとはまた一味違った尖ったセンスを感じることができただろう。個人的には、ニューヨークやロンドンと示し合わせたかのように、80年代の東京でもパンクとヒップホップのファッションが並行して扱われていたことはとても興味深かった。これを読んでいるそこの貴方も、限定アイテムを買えなかったことを悩む前に、地元のリサイクルショップをディグするなり、実家のワードローブに眠っているブランドの服を思い切ってカスタムしてみるのも一興ではないだろうか。最終回となる第三回はKCD氏に加えて、ビンテージヒップホップアイテムやオリジナルグッズを扱うYo!Brotherプロダクションを主催するデザイナーのパンゾー氏を交えた90'sヒップホップファッション座談会をお送りする。



KCDに訊くオールドスクール・ファッション史NY編
https://kode.co.jp/Articles/style-hiphop_fashon_kcd_ny

オールドスクールファッション対談 KCD✕Panzo
https://kode.co.jp/Articles/style-oldschool_kdc_panzo


INTERVIEW: 東京ブロンクス

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