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筆跡に魂を込めた、日本人アーティストの挑戦 現代美術家 山口歴

近しい友人たちから“メグルブルー”と形容される特異な作品性。恵まれながらもストリートを出自とし、非エリートである経歴。ニューヨークへ渡って10年が経過し、渡米前には無名であった一人の現代美術アーティストの山口歴が、これまでに獲得してきたプロップスや多くの実績は、一体どんな環境で育まれてきたものなのか。ニューヨークはブロンクスに構える彼のアトリエを訪れ、その人物像に迫った。



渡米のきっかけは、
アートは自由であるという原点回帰



—まずは山口さんが、画家を志すまでの経歴からお話ししていただけますか?

「父親がオゾンコミュニティという会社でオゾンロックスとヒステリックグラマーというブランドをやっていて、母は今も0008 / INFINITY というファッションブランドでデザイナーをしているのですが、小さい頃からそうしたファッションやアートなどのカルチャーが常に身近にある環境で育ちました。その頃から絵画教室に通わせてもらったり、漠然と絵を描いているのが好きな子供だったと思います。その後、進学の時期になって、芸大に入ろうと思って予備校に通うことにしたんです」。

—なるほど。そうなると、その後は美大へ進学されたんですか?

「それが東京芸術大学を目指して予備校に通ったんですけど、三浪してしまい、進学は断念したんです。その後、美大出身ではなくとも本格的にアートに関われる環境に身を置こうと思ったんですよね」。


—美大/芸大を諦め、その後はどう過ごされていたのですか?

「19歳から21歳の頃に、当時蒲田にあったアートスタジオに所属させてもらうことになったんです。そこはupsettersという建築事務所が主宰していた若手アーティストの為の作業場兼ギャラリースペースでした。ある時、のちの師匠ともなるMATZUさんとそこで出会うことになり、展示の手伝いをしていく中でアシスタントとして働くことになったんです」。

—そこから渡米することになった経緯はなんだったのでしょうか?

「MATZUさんは当時ニューヨークを拠点に活動されていて、2007年の3月くらいに、現地のギャラリーを周りたいと懇願し、初めてニューヨークへ行ったんです。その時に今はもう無くなってしまったんですが、ジェフリーダイチさんがやっていた“ダイチプロジェクト”というギャラリーがあり、そこで個展を開いていたクリスティン・ベイカーというアーティストの作品を見たときに、これまで僕が学んできた日本独自のアカデミックな手法のアートへのアプローチが凝り固まった固定概念だったと気が付いたんです。否定するわけではないんですけど、もっとアートは自由だっていう原点回帰に近い衝撃だったんだと思います。その衝動のまま、同じ年の6月に単身ニューヨークへ渡る決意をしました」。

—思い立ったが吉日。即行動に移したわけですね。

「決断力は割と早い方なんですよね(笑)。そこからMATZUさんを頼りに捨て身で渡米して、なんの身寄りもないまま5年間ほどアシスタントをしながら、ある時アシスタントでありながらもグループ展に参加しないかというお誘いを受けて、初めて山口歴の名で作品を発表することになったんですよね。それを機に独立し、本格的に活動していくことになっていきました」。



アーティストとしてどうやって
生きていくかを問われたアシスタント時代



—その初めて参加されたグループ展は確か、2011年に日本で行われたものでしたよね。

「そうですね。ここでの展示が僕の中での分岐点になっていて、アシスタント時代の集大成という意識を持って、夜中にコツコツと書き溜めていた作品8点を出展したんですが、まさかの全て完売。僕自身、当時は本当に無名だったっていうこともあって正直びっくりしましたね」。

—アシスタント時代であれば尚更手応えを感じてしまいますよね。そこから少しづつご自身の作風も確立されて行ったのでしょうか?

「アシスタント時代っていうのは、感覚的なセンスというよりは、アートをロジカルに捉え、プロセスを踏まえると作品は完成するという事実を体感として徹底的に刷り込まれていました。アーティストとしてどうやって生きていくかという術を学んだ気がしますね。そういった意味でも色彩感覚などの自分らしいスタイルが確立されていったのは、おそらくこの頃からだったと思います」。


—その色彩感覚を研磨して行った中で、山口さんの代名詞でもあるブラシ・ストロークが生まれたと。

「幼少期からオイルペインティングを学び、ストリートカルチャーを追い掛けた中高時代を経て、具象や抽象絵画、様々な技法を勉強し試した中で、自然と現在のブラシ・ストローク(筆跡)のスタイルに辿り着いた感じです。筆跡(ブラシストローク)というのはルネサンス以前から今なお継承される手法であり、時代や国境を超えて普遍的に存在するサブジェクトだと気づき、それをどうカッコよく、現代のエッセンスも取り入れながら自分の表現に昇華するか試行錯誤を重ねた20代でしたね」。

—それはヒップホップやグラフティなどのストリートカルチャーとも通じる部分がありそうですね。

「自分のルーツには、ベーシックなオイルペインティングが根本にあって、それを今のスタイルに繋がる系譜になっていると思います。僕自身、自分の作品はストリートアートでも無ければグラフィティでもないと思っているので、観る人が自分の作品から自由に感じてくれるのは嬉しいことです。実際に中高時代に影響を受けた東京のストリートカルチャーは今考えるとアメリカとは全く違う、東京独自のスタイルだったと思うし、“他国の良いところを取り入れて、独自の文化に昇華する”という日本人の精神性はヒップホップのサンプリングにも通じるものだし、自分を含めた日本人の誰もが持っている感覚だと思っています」。


—その後は目を見張る活躍を見せ、日本のみならずアジアやニューヨークなど様々な業界や企業とのコラボレーションも実現してきました。急速にその名が知れ渡っていく様はご自身としてどう感じていましたか?

「これまで大きな企業やブランドとのコラボやギャラリーでの展示など沢山のお仕事をさせてもらうことで、今まで知られるはずのなかった人たちまで自分の作品を届けられているのは単純に嬉しいですよね。しかしながら普段は、ブロンクスのスタジオとブルックリンの家の往復をひたすら繰り返し、日々絵を描いてるので、“全て手の上のiPhoneの中で起きてる事”って感じもするので、あまり現実味がないのが正直なところなんです。逆にそういったドラゴンボールの精神と時の部屋にずっといるような今の環境だからこそ、怠けずひたすら自分の作品を楽しんでアップデートする事だけに集中できると思っています。良くも悪くも東京はノイズが多いので」

—クライアントワークを行う中で、ご自身の作品制作とは異なる難しさなどはありましたか?

「そこは有り難いお話なんですけど、割と自由にやらせてもらえたので、ストレスなどは特になかったです。僕の作風を単純に良いと思ってもらえてオファーをもらえている部分も少なからずあると思うので。なので、こうしたコラボレーションも沢山実現できたのかなと思います」。


—ちなみに歴さんの作品では、ブラシ・ストロークと同様に象徴的に使われる“青”の色。これにはなにか意味があるのでしょうか?

「アートって30代でもまだ若手と呼ばれるような業界で、僕が今年34歳なんですけど、まだまだ若いという自戒も込めて青をテーマにしています。かつてピカソにも『青の時代があった』と言われるように、著名なアーティストが色を効果的に自分の作風に取り入れていることもあって、意識していますね。いずれは違う色になっていったり、より多彩な色彩を使っていくこともあると思うんですけど」。


—最後に今後もさらなる飛躍が期待されますが、ご自身はどんな展望をイメージしていますか?

「凱旋ってわけでもないですけど、来年あたりには日本でも在廊できる展示やイベントをできたらいいなって思います。あとは今も絶えず日常の様々な事柄からインスピレーションを受けながら、日々作品も進化していっているので、ウォールをキャンバスにしたスケールの大きいアートもニューヨークに限らず世界中で手掛けてみたいですね。自分のストロークが知らない街のビルにでっかく巻きついていたりしたらとか、考えるだけでワクワクします(笑)。小学生の頃に抱いてた作品に対し、ただただ没頭する姿勢、情熱、さらには支えてくれる周りの人達に感謝すること。そういった気持ちを常に忘れずにこれからも進化していきたいですね」。


山口歴
1984年東京都出身。現在はニューヨーク・ブロンクスを拠点に、ブラシ・ストロークによる手法で、キャンバスにコラージュする独自のスタイルを武器に「ACE HOTEL NY」、〈NIKE〉、〈ISSEI MIYAKE〉などとのコラボレーションや、「+81 gallery NY」、「Hidari Zingaro」、「HHH gallery」を始めとするギャラリーでの展示を行う。2015年には香港のタイムズスクエア、「SOGO HONGKONG」の30周年記念アーティストに選出され、30mのビルボードを飾るなど日々、活動の幅を広げている。

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