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MOTEL WORKS田中光太郎が見据える BMXの輝かしい未来

2020年東京オリンピックの正式競技にもなり、盛り上がりを見せるBMX。プロライダーの田中光太郎は、日本のBMXカルチャー黎明期より活躍し、BMXブランド「MOTEL WORKS」を手掛けるなど、BMXを世に広めるために現在も最前線で精力的に活動する第一人者だ。あまりにも劇的なBMX人生を振り返りつつ、MOTEL WORKSのことやBMXの未来などについて、お話を伺った。


―まずはBMXに乗り始めたきっかけから教えてください。

「高校生のときにカッコイイ自転車が欲しいと思って池袋の自転車屋で買ったのが、たまたまBMXだったんです。それで高校の先輩が僕の自転車を見て、「これ、BMXじゃん。技とかできるの知ってる?」と言われて、あとからBMXっていうものだと知りました。そのあと、海外のBMXのビデオを見たら、飛ぶわ回るわで、なんだこれは!? とビックリしちゃって。そこからハマっていったんです。1993年くらいのことですね。」

―その頃、日本ではまだBMXは浸透していなかったんですか?

「実は密かにブームが起きていた、というのは後に知るんですけどね(笑)。一人で乗っているとき友達に、「そういえば駒沢公園にBMXに乗っている人たちがいっぱいいるよ」と教えてもらって行ったら、うじゃうじゃいるんですよ。それでよく見たら、みんなのBMXはカスタマイズされている。僕のは当然まったくのノーマルだから、なんか恥ずかしくなっちゃって。これはダメだと一旦隠して、座ってずっと見ていたら、その中の一人が「BMX持ってないの?一緒に乗ろうよ」と声をかけてくれたんです。その時は自分のダサいBMXを見られたくなくて断っちゃったんですけど、「半年後に大会があるから来なよ」とフライヤーをもらったんですね。そこからビデオを穴が開くほど何度も見て練習しまくって、半年後にその大会に出たんです。そうしたら一発で優勝しちゃったんですよ。」


―もの凄いスピードで成長して、快挙を成し遂げたんですね。

「そうですね、見様見真似で技の名前もわからなかったので、“光太郎スペシャル”とか勝手に名付けていました(笑)。独学でやっていたのが、大会では逆にいい方向にジャッジされたというか。みんな何かをお手本にしていたのに、僕はまったく違うことをやっていたんです。オリジナリティが評価されるシーンなんだと思いましたね。」

―自分にはBMXの才能があると、そこで気付いたのでしょうか? 

「才能というより、唯一夢中になれるものを見つけた、という感じでしたね。何をやっても続かないし、習い事なんかもどうやってサボろうかと考えるタイプだったので。自分からもっと上手くなりたい、そのためにもっと知りたい、と思えたのはBMXが初めてでしたね。」

―その頃からプロになることを意識していたんですか?

「ビデオでアメリカのコンテストの映像を見ていて、いつかこういう大会に出てみたい、という気持ちはありましたね。駒沢公園の大会に出場してからは、BMX友達の輪も一気に広がったし。でも当時は、プロクラスの実力を持っていても、それで生計を立てている人なんていなかった。やっぱり22~23歳でBMXを卒業して、普通に仕事をする、というのが自然の流れでしたね。」


―でも光太郎さんはプロという道を選んだんですよね?
 
「いや、最初は僕もBMXで食べていけるなんて考えていなかったから、高校を卒業して運搬業社に就職したんです。トラックの後ろにBMXを乗っけて、休憩時間に練習はしていましたけどね。アマチュアのコンテストに出場したり、たまに雑誌に載っていたりもしたので、会社の人も応援してくれました。仕事をしながら趣味で乗る、それがベストだと思っていたんです。でもある日、友達が出場するコンテストを観に行ったら、その友達が直前に怪我をしちゃって、急遽代わりに僕が出ることになったんです。その頃はコンテストなんてずいぶん出ていなかったけど、結果その大会で優勝しちゃったんですよ。」

―まさかの一発勝利(笑)。

「奇跡が起きちゃって。いきなり現れて優勝をかっさらった、ということでメディアにもちやほやされたし、めちゃくちゃ嬉しかった。ただ、その大会に出場していたプロクラスのライダーからしたら面白くないですよね。あるライダーからは、「今日の勝ちは認めない!」とか言われましたし(笑)。」


―そんな辛辣なことを面と向かって言われるとは(笑)。

「鮮度というか、新しい存在がパッと出てきたら際立つんですよ。それから困ったことに、次の大会にも出場しなければならないみたいな空気になってしまったんです。でもラッキーパンチは2度当たらず、というか。予選すら通過できなくなっちゃって、そこから3年くらい暗黒時代があったんです。大会に出ても勝てない、怪我をして会社を休む、という悪循環。それで中途半端はよくないなと考えて、22歳のときに会社を辞めたんです。貯金も少しはあったから、全国の大会にできるだけエントリーして勝負をしたんですよ。そうしたら、ちょっとずつだけど成績が伸びてきた。そんな時期にクラブで行われるBMXショーに呼ばれて、初めてギャラをもらったんです。ゲストなので待遇はいいし、MCに「今日のゲスト!BMXライダー田中光太郎!」とか呼ばれたりして、なんか凄いじゃないか、これ! と思ったんです。もっとBMXライダーが求められる世の中にしなくてはならない、もっと広めるために海外でも勝てるライダーにならなくてはならない。そう思い立って、23歳のときにアメリカに渡りました。」


―単身で乗り込んだんですね。凄い決断力です。

「出発前の時期は日本の大会を7連勝くらいしていて、日本で敵ナシという状況でした。それでアメリカに飛んで、フロリダで全米アマチュアを優勝、ロサンゼルスで世界アマチュアを優勝したんです。」

―凄すぎる(笑)。

「勝負をかけるにはこのタイミングしかない、と思っていましたからね。帰国してからは、その優勝トロフィーを持って日本のメーカーに行き、海外遠征のための費用を出してほしいと相談しました。それで「君にかけてみよう」ということになって、そこから遠征費をもらえることになったんです。」

―念願のプロになれたんですね。

「そうですね。そのときがBMXのバブル期で、一番栄え始めた頃だったんですよ。1998~2000年くらいですね。賞金の高い大会も増えたし、すごくいい流れが生まれたんです。」


―そこからブランド「MOTEL WORKS」を作ろうと思ったきっかけはなんだったのですか?

「今年の12月に10周年なので、立ち上げは2008年ですね。自分も30歳を過ぎて、もっとBMXを世間に認知してもらいたい、自分が乗りたいものを自分で作りたい、という考えがずっとあったので、これは僕の最終ミッションだと思い、スタートしました。こだわりは12~20インチまで全てのサイズのBMXを作っていること。乗り始めるのは何歳でもいい、興味を持ったときがスタートだ、という想いが込められています。その年齢には年齢なりの乗り方があると思うんですよ。僕も41歳でピークは越えているけど、誰よりもカッコよくBMXを乗っている自信がありますからね。」

―年齢をともに重ねていける乗り物なんですね。

「僕のBMXの楽しみ方を、もっとみんなに知ってほしいんです。去年、怪我でずっと乗れなかった期間があったんですけど、家でパーツをばらして手入れしながら、それを肴にビールを飲んでいましたからね(笑)。僕からしたらプラモデルやエアガンとか、そういうものと同じなんですよ。地元の仲間たちも40代になって改めてBMXを買って、楽しく乗るためにカスタムするコミュニティを作ったりしていますからね。衰えたからBMXシーンから引退しますと言う人もいるけど、そうではなくて、ずっと楽しめる乗り物なんです。」


―それでは今後の展望を教えてください。

BMX STREET PARKとSKATEBOARDが2020年の東京オリンピックの正式種目になったので、盛り上がる流れがきている。ただオリンピックが終わって、また静かになってしまう状況ではなく、オリンピックまでにしっかりとエクストリームスポーツシーンを構築して、ずっと続くような流れを作る、というのが重要。2020年をきっかけに知った、この魅力にどっぷりハマった、という人を増やさないと意味がないので。そこは真剣にやっていきたいですね。


田中光太郎 MOTEL WORKS
プロBMXライダー。日本国内のみならず、海外でも優秀な成績を上げ、BMXのプロとしての先駆け的存在となる。BMXブランド「MOTEL WORKS」を設立し、モデルの開発やスクールなども開催。イベント「CHIMERA GAMES」も手掛け、日本のBMXシーンを盛り上げるために精力的に活動している。

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