search search

オールドスクールファッション対談 KCD✕Panzo

東京とニューヨークを拠点に、世界中のヒップホップヘッズやアーティストから熱い支持を集めるアパレルブランド、BBPのメインデザイナーを務めるKCD氏。そして、Golden Era(Hip Hop黄金期)カルチャーにインスパイアされたアートワークを発信するYo! Bros Pro.のボスPanzo氏を交えて、ヒップホップファッション自分史をたっぷり語ってもらった。懐かしい思い出話あり、初めて知る逸話ありの濃ゆい座談会となった。


―ヒップホップへの入り口は音楽から

お二人が初めて買ったヒップホップの音源は何だったんですか?

KCD「何だろう? 貸レコード屋さんで、ワイルドスタイルとランDMCとかL.L.Cool Jの一枚目の間に出た何かを最初に借りたはずなんだけど覚えてないな。バンバータは何枚か借りていたかな。自分がタワレコとかシスコで買ったのはLLの一枚目」

Panzo「ブッダブランドの『人間発電所』でしたね。アメフトの合宿の帰りに先輩に聴いてみなよって勧められて。次の日、速攻CD買いに行ってテープに落としてショックウェーブ(パナソニックのカセットプレイヤー)で聴いてました」

ショックウェーブはみんな持ってましたよね。ちなみに自分はRUN-DMCのベスト盤でした。Panzo君が洋楽のヒップホップを聴き始めたきっかけは何だったんですか?

Panzo「上野シスコ(レコード屋)に行くようになった頃に、『新入荷!アイアンマン、ゴーストフェイス・キラ』ってポップに書いてあって、ムキムキマンっていう邦題の響きだけで買っちゃいましたね。」

KCD「80年代のいわゆるゴールデンエラって言われている頃からずっと聴いていると、91年ぐらいで一回その勢いがなくなるのよ。88年はパブリックエネミーが来日したり、渋谷のレコード屋さんをチェックしてたらEric B & Rakimの一枚目が出て次の週にはUltra Magnetic MC’sが出たり、凄いのがどんどんくる時期で、サウンドの流行の勢いが毎週続いていてエキサイティングだった。その頃のラップが超面白い!っていう雰囲気が、91年頃から洗練される時期に入って新しさがガクンと落ちるの。その時にラップから離れる人も多くて」

ネイティブタンとかニュースクールが一通り出揃って、ハマーやヘビィDなどのダンサブルな曲が流行る時代ですよね。

KCD「そう。あとあとから考えるとサンプリングクリアの問題で、まんまのコラージュができなくなっちゃったの。DJプレミアが元ネタをチョップする手法で新しい流れを作るんだけど、91~92年はそれが出てくるまでの間の時期だった」


―オールドスクールからニュースクールへの転機

ア・トライブ・コールド・クエストとかニュースクール勢のファッションは、どう捉えてたんですか?

KCD「それまではLLみたいに金ジャラジャラつけてTROOPを着てマッチョじゃないとヒップホップじゃない感じだったけれど、トライブとかデ・ラ・ソウルはゴールドなんて古いしもっと肩の力を抜いていこうぜみたいな感じだった」

ーでは日本のニュースクールだと、スチャダラパーはどういう存在だったんですか?

KCD「芝浦のインクスティックで『DJアンダーグラウンドコンテスト』ってイベントがあって。僕は坪井くん(illicit tsuboi)と二人でGold CutっていうDJチームで出ていたら、スチャダラが『太陽にほえろ』を二枚使いしてラップしていたんだよ。それが超面白くて目立っていた。ファッションは、メインストリームとは全然違う普段着っぽい感じだった」

初期のスチャダラのイメージは短パンでボーダーのシャツを着てるイメージですね。

KCD「スチャダラは最初からマッチョなヒップホップファッションじゃなくて、もっとニュースクールなこざっぱりしたイメージだったと思う。当時、MUROが全身TROOPで頑張っていたけど、個人的にはついてけないなと思っていて。黒人のコスプレみたいになっちゃうと普通に街を歩けねえなと思ってた。DJクラッシュさんとかMUROがチッタでイベントをやっている時に、ロビーでよく本人たちが着ていたTROOPとかをフリーマーケットで売りに出してたな。ただ、その数年後の94、5年頃に自分やHIPHOP最高会議の千葉くんとかの間で突然オールドスクールマイブーム来て、それこそTROOP上下に極太ゴールチェーンにスーツケースサイズのラジカセみたいな完全ミドルスクールコスプレ状態で下北を練り歩いたりするようになるんだけどね(笑)。ニュースクールが出てきた時代に話を戻すと、88、9年頃ジャンブラとかがチャンピオンを着ていて、東京でチャンピオンが急に流行った。アメ横にあるヤヨイって店に売っていたんだけど、そこにいかないとリバースウィーブがなかった」

自分は90年代ですがリバースウィーブはいつもオシュマンズで買っていましたね。The Apartmentさんのブログで読んだんですが、最近ニューヨークのいけてるブランドのボディもリバースウィーブが多くて、NYのMoMAで行われていた『ITEMS : IS FASHION MODERN?』展でも、リバースウィーブがこの100年を代表する111個のアイテムのひとつに選ばれていたらしいです。


―ミリタリーやワークウェアをあえて着る流行り

Panzo「僕は当時アメフトの部活漬けの毎日で、チャンピオンは高くて買えなくて、2000円くらいで売っていたディスカスの黄色いスウェット(アメ横のヤヨイ商店)を着てました。着過ぎもありますがすぐ毛玉になっちゃうんですよ。それに帽子は一番安いイスラムハットで冬でも被ってました。あのスッカスカなヤツです。それにM65を着ていましたね。中田商店(上野にあるミリタリーショップ)そういうヒップホップっぽいものを探していました」

90年代はニューヨークヒップホップの隆盛と一緒にファッションではワークとミリタリーが爆発的に流行って、その前から人気があったスポーツ要素がプラスされる流れですよね。ECDさんが日本で最初にティンバーを履いた話もありますよね。コテコテから爽やかな感じに移行する転換期でしたね。

KCD「その頃、ECDがチェックユアマイクっていうパーティを定期的に初めて、僕もよく出ていた。その時期のシーンは、須永辰緒さんが毎週ミロスガレージの火曜にヒップホップを流していて、そこにいた面子が核になってたんだよ。80年代の終わり頃、一晩ヒップホップがかかるのは、辰緒さんのパーティかMUROが行っていた六本木のドゥルッピードロワーズの2つくらいしかなくて、ヒップホップ好きな人はみんなどっちかに行っていた」

六本木のクラブにダンサー寄りの人が集まる感じですか?

KCD「そう。そっちにはソウル・ディスコ方面の人も流れてきていた。辰緒さんはルーツで言えばニューウェーブとパンクだから別。ファッションの話に戻ると、いわゆるニュースクールやネイティブタンとかの影響で、キメ過ぎないオシャレな普段着を着ているような、今につながる流れがあったのかもしれない。ただ、その数年後、全身迷彩に(笑)」


―全身カモフラージュ柄が一時期トレンドに

全身迷彩って最初は誰が流行らせたんですか?

KCD「最初はパブリックエネミーじゃない?」

着ていましたね。でもPEのグレーのカモはファッション的にはかっこよくなかった気がします。日本でも真似していたのZINGIくらいじゃないですか? ファッショナブルなカモフラはDas EfxとかSmif-N-Wessunの影響が大きかった気がします。

KCD「パブリックエネミーのカモフラは流行んなかったよね(笑)。LLも90年代頭に一瞬迷彩を着てちょっと流行ったけどすぐ着なくなっちゃった」

カモフラの前に、カーハートに代表されるワークウェアの流行がありますよね。

Panzo「あれはどこからなんですかね。Bizも彼の弟もカーハートを着てましたよね。92年の映画『Juice』では、ワークも軍モノもアウトドアも入ってるし、ファッション的なバランスが良くて、今までで1番観たVHSですね。今でもオンラインショップのスタイリングに劇中のカットを引用したり、主人公が被っていたフロッピー・ハット(通称ビラビラハット)もYo! Bros Pro.型を起こして作っちゃったくらい好きな1本ですね」

確かに。『Juice』の前のヒップホップ映画では、『ドゥーザライトシング』や『ボーイズンザフッド』になるのかな。『ドゥーザライトシング』が公開された当時から、スパイク・リーのアパレルブランド、40エイカーズは流行っていたんですか?

KCD「流行ってた。日本でもみんな着てたよ。『ドゥーザライトシング』が公開された頃に日本に輸入物が入ってきていて」

マルコムXの帽子が日本でも流行っていたのは覚えていますね。

KCD「93年の夏にニューヨークに行った時、まだブルックリンにスパイク・リーの事務所があってその下にショップがあった」


―ヒップホップならではの極端なサイジング

その時期はクロスカラーズとかがダンスブームで流行ったのと、ワークや軍モノのブームのちょうど間ですよね。

KCD「そうだね。あと、太いパンツがちょうどその時期にきたね。それまではそんなに太くなかった。例えばパブリックエネミーとかLLの頃って普通にストレートなの。それよりもっと前だとスキニーみたいな感じで着ていて。パブリックエネミーで普通に501くらい。その後、91年くらいに太いのが出てきた気がする」

ダンサーの服のサイジングがあんなに太かったっていうのは……?

KCD「単に動きやすかったからじゃないかな(笑)。サイジングの話でいうと、フィラデルフィアのヒルトップっていう地域に、コリアンの奥さんがやってるすごい洋品店があって、。昔はダブルグースのジャケットとかカンゴールが山のようにあったり、すごいいろんなものがあったらしくて。僕は2000年代に行ったから既に全盛期ではなかったんだけど、そこで昔のデッドストックがあるかを聞いたら、アディダスの80年代のTシャツとかがいくつか出てきて、それがLやXLのサイズ表記だけど超ちっちゃいの。今の基準で言ったら2サイズくらい小さい。なんで小さいのか聞いたら、『当時はタイトに着るのがかっこよかったからすごい小さく作ってたんだよ』って話を聞いた」

確かに80年代はタイトですよね。

KCD「ピチっとしてちょっとマッチョに見えるのがかっこいいっていうのがあったみたいね」

そこからダンサーの時代に。

KCD「最初はMAJOR DAMAGEとかGET USEDとか裾は細いんだけど腿は太いテーパード(パンツ)が最初に流行った。履かなかったけど極端なボビー・ブラウンとかハマーが履いてたようなサルエルパンツみたいなのもあった。あのへんを経て、93年くらいからいきなり腿から裾までズドンって太いGUESSやジルボーが出てきた」


―思い入れ深いブランドの数々を語る

西海岸ではチカーノがベンディビスのゴリラカットを履いていますよね。あのルーツはズートスーツまで遡りそうだからヒップホップとはまた別なのか。93年頃は所謂ヒップホップブランドがいっぱい出てきますよね。思い出深いブランドってありますか?

Panzo「最初に成功したヒップホップブランドは、やっぱクロスカラーズなんですかね〜? 90年代初期は後追いなので先輩方の話と当時の雑誌しか情報がないのでなんとも言えないのですが… 」

ダンサー世代はそうですよね。俺らの世代はモーリスマローンが流行ってました。

KCD「そっか。あのへんのブランドは僕らの仲間の中では一貫してかっこよくなくて」

それもわかります、コテコテですもんね(笑)。

KCD「クロスカラーズはデザインがかっこよくなかったじゃん(笑)。ヒップホップブランドでいうと、グラフィティ系のGFSや当時ロウワーイーストサイドの小さな店で細々とやってた初期のTriple 5 Soulとか当時は買っていたかな。その頃Walker WearがランDMCをイメージモデルにしてちょうど出始めた時期でマンハッタンでニット帽とTシャツを着ていたら、どこで買ったのかやたら聞かれたな」

確かに、グラフィティ系はかっこいいブランド多かったですよね。

KCD「あと初期のヒップホップブランドでいうとファットファームがあったよね。当時、ニューヨークで『ニューミュージックセミナー』っていうイベントが年に一回あって、94年まで行っていたんだけど、どこかのブースにコンちゃん(デブラージ)がいたの。以前からケイザブロウ(DS455)がよくクラブに連れてきていたのでコンちゃんの顔は知っていて。何でここにいるかを訊いたら、バイトしているんだって。その時にイケてるブランドがないのかを訊いたら、ラッセルシモンズがファットファームを始めたことを聞いて、それでソーホーに買いに行った覚えがある」

Panzo「カルバンクラインのパンツを見せて履くのが流行っていた頃に、姉ちゃんがカルバンクラインのストッキングを持っていたので、それを被って結んで上を切ったらめちゃくちゃ怒られました(笑)」

あれは頭がちっちゃい人でないと似合わないし、そもそも黒人のようにストッキング被る文化がないからだいぶハードル高かったですよね。

KCD「そのあとのドゥーラグに繋がるよね」

Panzo「マイク・ジェロニモがジャケでいつも被っていたので高校の頃はよく真似していました」

―ニューヨークのショップ、東京のショップ

KCD「94年頃から毎年ニューヨークに1ヶ月ほど行くようになって。その頃は日本で雑誌の『Boon』が売れていて、裏原ブランドも出てきた頃だけど、ニューヨーク行ったら雰囲気が全然違っていて。現地の店では、ドクタージェイズが有名で日本でいうとマルカワとかジーンズメイトみたいな店なんだよね。値段も安いし、無地のTシャツを10色買って、スニーカーと色を完璧に合わせたり。あと、アーミーネイビーって呼ばれてる中田商店みたいな軍物の店が街中にたくさんあるんだけど、ワークものも売っていてリアルツリーの上下を買ったり。他には、ジャマイカクイーンズの奥地にあるショッピングセンターの地下に、ゴールド屋がずらっと並んでるでかい金センターみたいなとこがあって。そこで14Kで金歯を作って、一応牙もつけて名前も入れた。でも、どうもメソッドマンがしてるみたいな金歯と違うし、牙も当たって痛かった(笑)。どうしても納得いかなかったので18Kでもっとゴツイのもう一個作った(笑)。自分の名前でリングを作るのも流行ってたな。14Kで3つくらい作った。HIPHOP最高会議の千葉くんも4連くらいの”CHEEBA”(チーバ)ってリング作って、マリファナって意味だから海外に行くとめっちゃウケる(笑)」

90年代半ばからは直接ニューヨークで買うようになったんですね。

KCD「そうそう。向こうから買ってくると、値段が倍から3倍したから。クアトロの前のところでMUROが屋台でお店出してたの知ってる? ワゴンにBボーイグッズをたくさん積んで。ウォークマンとかアバクロのやつとか。そのあとサヴェージになったはず。その前に、タワレコの向かいあたりにあったビルの非常階段を登りきった3階くらいの超狭いところでやってた時期もあったな。高速ダビング機が5台くらいあって、ミックスCDをバンバンコピーして売っていた」

Panzo「上野のアウターリミットは行けてませんでしたが、スタッフの先輩方からよく話は聞いてました」

KCD「アメ横のセンタービルにアウターリミットっていう、基本はレゲエの店なんだけど、ヒップホップのものを入れてたの。ニューヨークから買い付けに行って売ってたのかな」

その当時のファッションリーダーのMUROさんやガスボーイズの人たちは凄いおしゃれなイメージがありましたね。

KCD「ガスボーイズは上杉や今井もミロスガレージにいたよ。その当時はいかにビースティと同じようなもの着るかコンテストみたいな雰囲気で。今井が上野のミタスニーカーで働いていて、当時からレアなスニーカーを色々履いてたね」

Panzo君がヴィンテージのヒップホップアイテムを買うきっかけはなんだったんですか?

Panzo「もともとはレコードから好きになって、洋服は安くてそれなりに見えるものでやり過ごしていたんです。そこから、レコードの裏ジャケに載っているギャングスターとかEPMDが仲間と車の前で写っているポッセカットの写真を見て超かっこいいなと思って。でも既に99年頃だったので、現行の流行りは追わずに古いものを追うようになって。キッドゥンプレイとか聴いて超かっこいいって(笑)。今考えると本当に恥ずかしいんですけれど、そうやって掘り下げて洋服をチェックして古着もそれっぽいの買い始めたのがきっかけでした」

KCD「古着屋さんにヒップホップ系の服もあったの?」

Panzo「2000年代手前までは、ギリギリ残っていた潰れかかったスポーツ用品店みたいなところでデットストックで見つけたり。古着屋で当時全く値段がついてなかったDapper DanのGucciのレザージャケット等も3,800円とかで買えたり(当時は気付いてません)、今ではトンデモナイくらい値の付くアイテムも規模大き目な古着屋に行ったら何かひとつは買えた記憶はあります。でも最初は、ボーダーを着てフードをかぶってそれっぽく着ればノーブランドでも気にしなかったので、コレクションではなく自分が着るために買っていました」

KCD「じゃあ2000年の時点でアーリー90’sを掘っていた感じだ」

Panzo「そうですね。そこからミドルもだんだん好きになって。暫くしたら、今度はマイナーレーベルのTシャツが欲しいと思うようになって、売っていないから自分で作っちゃえって思い、アイロンプリントで作ってました。23歳頃に浅草でやっていたイベントでDJ Kocoさんにゲストで出てもらった時に、僕が着ていたTシャツを見て『それ欲しいっ!』て言ってもらって、あっ需要あるのか!ってなって知り合いの人には最低限の金額で作って買ってもらってましたね。」


―自分でブランドを始めるまで

Yo!brosはどうやって始まったんですか?

Panzo「2005年頃に一人で始めました。と言ってもPVで観て絶対売ってないだろうってネタとか、マイナー・ミドル(現:ランダムラップ)のレーベルをそのまんまTシャツ作っていただけなんですけれど」

じゃあ最初はブート屋から始まったって感じですか?

Panzo「そうですね…(苦笑)。アイロンプリント以降、2005年だと思うのですが初めての業者発注はQuasimoteのRapp Catsの冒頭に出てくるUltramagnetic Mc'sのCed Geeが着ていたオールドスクール・マナー全快の*コチラ(下の写真)です。 そのTシャツを一番最初に取り扱ってくれた渋谷の電力館前にあった先輩のお店『モグラの巣 Records』に、そのTシャツを納品しに行った時フジロック帰りにたまたまレコードを買いに来ていたピーナッツバターウルフとマドリブ(Quasimoto)と鉢合わせて『コレは誰が作ったんだ?』って言われて、あー… ただじゃすまなそうと思いつつも自分が作ったこととRapp Catsを見て作ったと白状したところ『ヤベーじゃねーかコレ買うよ!』と意外な返しが(笑)! 彼は普通に$30とそのTシャツにサインをしてくれました。今でも事務所に飾ってますよ」


Quasimoto - Rappcats
※コチラ(PV 0:10に出てくるTシャツ)


BBPが始まったきっかけは?

KCD「もともとKプリンスとズンバグが始めたんだよ。その2人がブロンクスに住んでいて自分はクイーンズ、それでズンバグが自分と同じスクールオブビジュアルアーツに通ってたの。ズンバグが卒制で、パーシーPとロードフィネスの伝説のバトルを再現する『SBX』っていう短編映画を撮ってて。それで、小道具をデザインしてくれって頼まれて、作中で使われているポスターとかを作った。それから後日DVDになった時にジャケットもデザインしたな。その頃2人は細々とTシャツを刷って日本に卸してたりしてたんだけど、もっときちんとアパレルやりたいと話をしていたので、自分がデザインやれるし、作り込みの洋服とかは昔同じクラブで遊んでいた上田くんに相談してみたら?ってヒステリックグラマーを退職したばかりだった上田くん(GGK)を紹介した」

ママラージ(BBP)「実はその話より前に、上田さんとズンバグはすれ違っていたことがあって。上田さんは当時ズンバグが監督したMUROさんがOCとやっていた曲「Lyrical Tyrants」のPVに出てくる金のキャデラックに乗っていて、撮影の時ズンバグにその車を貸してたんです」

KCD「だから撮影の時、知らず知らずのうちに上田君とは会っていたんだけど、お互いに認識はしていなくて」

古着屋で働いていたママラージさんと上田さんと、NY組のKCD、Kプリンス、ズンバグが合流したと。

ママラージ「初めはスカイプで『初めまして、どうやっていきましょうか』という感じで挨拶して、その後は日本に来て会って」

BBPの最初のヒットアイテムはなんだったんですか?

ママラージ「MELON(中西俊夫のバンド)をサンプリングしたPELONのTシャツはめっちゃ売れたかも」

KCD「あとはレコードレーベルとのコラボもの。ストロングシティやセレクト、フレッシュとか」

それはブロンクス組の人たちが直接レーベルに商談に行くんですか?

KCD「ケースバイケースですね、KPやズンバグが個人的に知り合いのアーティストとは直接の時もあるし、版権管理会社を通す場合もあるし、セレクト、フレッシュなんかは、僕と同じ大学にいた友人がたまたまフレッシュとかの版権を管理している会社で働いていたので彼経由でやったり」

ニューヨークの現地の人たちからするとBBPはどういう風に見られていますか?

KCD「そもそも今のメインストリームとは全然違うわけで。オールドスクールヘッズとかレコードマニアとかそういう人たちからすると、君たちがやってくれてありがたいみたいな雰囲気」

アーティストからの反響もありましたか?

KCD「『NEW YORK NEW YORK』ってメッツカラーでプリントされたTシャツを作った時に、来日したナズが原宿のBLACKANNYってお店で見つけて大量に買っていったらしい。あとラキムのTシャツをアメコミっぽいキャラクターにして作った時は、SNSでラキムの娘が見つけてぜひ送ってくれって連絡が来たり。アメコミでいうと最初無許可でアメコミ調のキャラで作ったULTRAMAGNETIC MCsのTシャツを本人たちが見て、すごく気に入って後からオフィシャルコラボで出し直したりとかもあった。あとLORD FINESSEのツアーシャツのデザインで作ったロゴを本人が気に入ってその後FINESSEのオフィシャルロゴになったりとか」


―ふたりのオールドスクールへのこだわり

オールドスクールにこだわる理由は何ですか?

KCD「そこに実験性がまだあった時代だったから。私見だけど、96年頃を境に良くも悪くも、まともな普通に聞ける音楽になっちゃったんだよね。クオリティも上がったけど整理されちゃって。僕が最初に聴いた時は、いきなり他人のレコードを2枚かけるところからして常識的に考えておかしかった。サンプラーで1小節まるまる録って更に別の曲のパートを組み合わせていくのは、何にも知らない人に説明をすると前衛的な現代音楽にすら思われる。でも、同時にすごいポップな部分もあるのがヒップホップのすごいフレッシュな部分。ファッションでは、リーでもカンゴールでも違ったかぶり方や違う組み合わせでフレッシュなものにしていたのがやっぱり重要で。例えば今エイサップがバレンシアガを普通に着ているのとはやっぱりちょっと違うんじゃないかと。もともとそんなに価値がないものを着方や工夫によって良いとさせてたのがヒップホップファッション。あと、基本的にちょっとダサい、洗練されすぎない部分はエッセンスとして重要だと思う」

Panzo「自分はとにかくサンプリングとブートが大好きで。メンバーのPoor K、Takarlの3人でいつもネタを揉んでいるのですが、自分達が根本においているのは『カルチャーの継承です。自分たちがちゃんとやりたいんだったら下に繋げないと、自分たちすら楽しめないと思いますし、極僅かの人にでも下の世代の子が増えたら嬉しい』と思ってます。ここにたどり着くのも、初期にブートをやり過ぎて、フィリーのタフクルー(Phanjam)のパーカーを勝手に作ったら、その直後にタフクルーとBBPのオフィシャルコラボが出て(笑)。それで案の定、先輩から『上田さん(BBP代表)がメッチャ怒ってるぞ!』との話が耳に入り……。その一件があってから、そのまんまやっても面白くないし、ひねらなくちゃHip Hop(破壊からの創造)じゃないと思うようになったんです。なので、現場で会っても超気不味い… 最初はそういう出会い方だったからちょっと、いや… だいぶ怖かったりもしたんですが、数年前NYから帰ってきたZunbugさんがディレクターを務めるRap Attackグラフィック・チーム(自分は90年代寄り担当)に誘って頂いた縁もあり、今では一緒にお仕事をする仲で良くしていただいております。今後のオリジナルウェアのラインナップでは、前回即完売のオリジナルサコッシュや、話題のロクサーヌ×2のバトルネタをオマージュした新作Have a Nice Dayや、For The Recordの新シリーズも展開予定です」

3回に渡ってお送りしたオールドスクールファッション特集、いかがだっただろうか?本場のHIPHOPの風を求め聖地ブロンクスに渡ったKCDと、東京の下町で人知れずHIPHOP古着をディグをし続けたPanzo、時代も場所も異なる二人のHIPHOPファッションに関する貴重な証言は、HIPHOPのファッションは、値段や稀少性よりスタイルこそが唯一の正義であることを思い出させてくれた。あなたがお気に入りのアイテムをディグをする際の指標としても、ぜひ役立てて欲しい。



KCDに訊くオールドスクール・ファッション史 東京編
https://kode.co.jp/Articles/style-hiphop_fashon_kcd_japan

KCDに訊くオールドスクール・ファッション史NY編
https://kode.co.jp/Articles/style-hiphop_fashon_kcd_ny


INTERVIEW: 東京ブロンクス

SHARE

}